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しんせい
新生
島崎 藤村
「東京朝日新聞」1918(大正7)年5月1日~10月5日、1919(大正8)年8月5日~10月24日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 334,815 字 · 663 页
それほど航海するものに取って寂しい時であった。岸本は唯一人の自分をその広い甲板に見つけるようなこともよくあった。そういう時に限って、人には言えない悲しい嵐の記憶が、あの仏国汽船で港から港へと波の上を急いだ往きの旅の記憶が、節子のことを義雄兄に頼んで行くつもりの手紙が神戸で書けず上海でも書けず香港まで行く途中に漸く書いて置いて行ったような心の経験の記憶が、それらの記憶があだかも昨日のことのように彼の胸の中に帰って来た。眼前には長い廊下のように続いた板敷がある。白く塗った通風筒がある。柱がある。碇綱を巻くための鉄製の器具がある。甲板の欄の線と交叉して、上になり下になりして見える遠い水平線がある。日でもかがやいて来ると、譬えようの無い青さに光る海がある。すべては曾て有ったと似よりのもののみだ。岸本は太い綱や船具の積重ねてある側を通って、艫のところへもよく行って立って見た。水深を測量するための器械が装置してある艫の欄の側から波間に投入れてある一条の長く細い綱の絶間なくクルクル廻るのを眺めると、独りで故国の空を後方に望んで来た往きの航海の記憶がまた胸に浮んで来た。