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しんせい

新生

島崎 藤村

「東京朝日新聞」1918(大正7)年5月1日~10月5日、1919(大正8)年8月5日~10月24日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 334,815 字 · 663 页

青空文庫

百二十三

沈まって行った情熱を静かなところで想い起して見ると、実にいろいろなことがその中から出て来た。

二階がある。窓がある。障子がある。障子の外は直ぐ物干場につづいて、近くの町の屋根も見える。遠く小高い崖の地勢に立つ雑木林の一部も見える。郊外らしい空もそこから望まれる。その窓際に身をよせて、譬えようのない不安に沈んだ人のようにしょんぼり窓の外を眺めている女がある。この二階が以前の高輪の家の近くに岸本の仮の書斎としてあったところだ。この女が節子だ。

その時ほど岸本は自分の弱いことを感じたことは無かったことを思い出した。何故というに、三年の旅の修業が実際何の役に立つかと自分ながら疑われて来たのも、その時であったから。節子が二度母にならないとも限らないような心配らしい口吻を泄らしたのも、その時であったから。人の経験というものの力なさがその時ほど彼を嘆息させたことも無かった。あれほど死に損なうような苦い思いを一度経験しながら――あれほど寂しい流浪の旅に行って異郷の客舎の床の上に跪き、冷い板敷に額を押宛てるまでにして、男泣きに泣いても足りないほどの痛苦を一度経験しながら――その経験が少しも彼の頼みにはならなかった。