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しんじゅふじん
真珠夫人
菊池 寛
「大阪毎日新聞」、「東京日々新聞」1920(大正9年)6月9日~12月22日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 289,296 字 · 578 页
」と、彼に呼びかけた。
見ると、その男は富士屋自動車と云う帽子を被っていた。信一郎は、急に援け舟にでも逢ったように救われたような気持で、立ち止った。が、彼は賃銭の上の掛引のことを考えたので、そうした感情を、顔へは少しも出さなかった。
「そうだねえ。乗ってもいゝね。安ければ。」と彼は可なり余裕を以て、答えた。
「何処までいらっしゃいます。」
「湯河原まで。」
「湯河原までじゃ、十五円で参りましょう。本当なれば、もう少し頂くのでございますけれども、此方からお勧めするのですから。」
十五円と云う金額を聞くと、信一郎は自動車に乗ろうと云う心持を、スッカリ無くしてしまった。と云って、彼は貧しくはなかった。一昨年法科を出て、三菱へ入ってから、今まで相当な給料を貰っている。その上、郷国にある財産からの収入を合わすれば、月額五百円近い収入を持っている。が十五円と云う金額を、湯河原へ行く時間を、わずか二三時間縮める為に払うことは余りに贅沢過ぎた。たとい愛妻の静子が、いかに待ちあぐんでいるにしても。
「まあ、よそう。電車で行けば訳はないのだから。」と、彼は心の裡で考えている事とは、全く反対な理由を云いながら、洋服を着た大男を振り捨てゝ、電車に乗ろうとした。