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しんじゅふじん

真珠夫人

菊池 寛

「大阪毎日新聞」、「東京日々新聞」1920(大正9年)6月9日~12月22日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 289,296 字 · 578 页

青空文庫

四

そう思って見ている中に、ふと一枚のレタアペイパアに、英語か仏蘭西語かが書かれているのに気が付いた。彼の好奇心は、動いた。彼は、少し上体を、その方に延ばしながら、それを読んだ。

(Shinichiro)

彼は、自分の名前が書かれているのに驚いた。が、その次ぎの二字を見たときに、彼の駭きは十倍した。

(Shinichiro, my love!)

『信一郎、わが恋人よ!』

而も、その同じ句がそのレタアペイパアの上に、鮮かな筆触で幾つも/\走り書きされているのだった。

四

『信一郎、わが恋人よ!』

信一郎の頭は、この短い文句でスッカリ掻き擾されてしまった。彼は十七八の少年か何かのように、我にも非ず、頬が熱くほてるのを感じた。夫人に対して、張り詰めていた心持が、ともすれば揺ぎ始めようとする。

彼は、心の中で幾度も叫んだ。夫人の技巧の一つだ。誘惑の技巧の一つだ。自分の眼に入るように、わざとこんな文句を、書き散して置いたのだ。見え透いた技巧なのだ! が、そう云う考えの後から、又別な考えが浮んで来た。あの悧巧な聡明な夫人が、こんな露骨な趣味の悪い技巧を弄する訳はない! やっぱり、夫人の本心から出た自然の書き散しに違いない。