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しんじゅふじん

真珠夫人

菊池 寛

「大阪毎日新聞」、「東京日々新聞」1920(大正9年)6月9日~12月22日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 289,296 字 · 578 页

青空文庫

六

信一郎は、今は止むを得ないと云ったように、夫人と擦れ/\に腰を降した。夫人の身体を掩うている金紗縮緬のいじり痒いような触感が、衣服越しに、彼の身体に浸みるように感ぜられた。

給仕やボーイなどの挨拶に送られて、自動車は滑るように、玄関前の緩い勾配を、公園の青葉の闇へと、進み始めた。

給仕人達の挨拶が、耳に入らないほど、信一郎は、烈しい興奮の裡に、夢みる人のように、恍惚としていた。

六

つい知り合ったばかりの女性、しかも美しく高貴な女性と、たった二度目に会ったときに、もう既に自動車に、同乗すると云うことが、信一郎には、宛ら美しい夢のような、二十世紀の伝奇譚の主人公になったような、不思議な歓びを与えて呉れた。万世橋駅迄の三四分が、彼の生涯に再び得がたい貴重な三四分のように思われた。彼の生涯を通じて、宝石のように輝く、尊い瞬間のように思われた。彼は、その時間を心の底から、享け入れようと思っていた。が、そう決心した刹那に、もう自動車は、公園の蒼い樹下闇を、後に残して、上野山下に拡がる初夏の夜、そうだ、豊に輝ける夏の夜の描けるが如き、光と色との中に、馳け入っているのだった。