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しんじゅふじん
真珠夫人
菊池 寛
「大阪毎日新聞」、「東京日々新聞」1920(大正9年)6月9日~12月22日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 289,296 字 · 578 页
四
「いや承知しました。」
そう云うかと思うと、彼は俯きながら、狂人のように其処に落ち散っている絵具のチューブを拾い始めた。それを拾ってしまうと、机の引き出しを、滅茶苦茶に掻き廻し始めた。机の上に在った二三冊のノートのようなものを、風呂敷に包んでしまうと、彼は父に一寸目礼して、飛鳥のように室から駈け出そうとした。
父が、駭いて引き止めようとする前に、狂気のように室内に飛び込んだ瑠璃子は、早くも兄の左手に縋っていた。
「兄さん! 待って下さい!」
「お放しよ。瑠璃ちゃん!」
兄は、荒々しく叱するように、瑠璃子の手をもぎ放した。
瑠璃子が、再び取り縋ろうとしたときに、兄は下へ行く階段を、激しい音をさせながら、電光の如く馳け下っていた。
「兄さん! 待って下さい!」
瑠璃子が、声をしぼりながら、後から馳け下ったとき、帽子も被らずに、玄関から門の方へ足早に走っている兄の後姿が、チラリと見えた。
四
兄の後姿が見えなくなると、瑠璃子はよゝと泣き崩れた。張り詰めていた気が砕けて、涙はとめどもなく、双頬を湿おした。
母が亡くなってからは、父子三人の淋しい家であった。段々差し迫って来る窮迫に、召使の数も減って、たゞ忠実な老婢と、その連合の老僕とがいる丈だった。