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しんじゅふじん
真珠夫人
菊池 寛
「大阪毎日新聞」、「東京日々新聞」1920(大正9年)6月9日~12月22日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 289,296 字 · 578 页
七
七
樹の間を洩れて来るピアノの曲は、信一郎にも聞き覚えのあるショパンの夜曲だった。彼は、廻そうとした踵を、釘付けにされて、暫らくはその哀艶な響に、心を奪われずにはいられなかった。嫋々たるピアノの音は、高く低く緩やかに劇しく、時には若葉の梢を馳け抜ける五月の風のように囁き、時には青い月光の下に、俄に迸り出でたる泉のように、激した。その絶えんとして、又続く快い旋律が、目に見えない紫の糸となって、信一郎の心に、後から後から投げられた。それは美しい女郎蜘蛛の吐き出す糸のように、蠱惑的に彼の心を囚えた。
彼の心に、鍵盤の上を梭のように馳けめぐっている白い手が、一番に浮かんだ。それに続いて葬場でヴェールを取り去った刹那の白い輝かしい顔が浮んだ。
彼は時計を返すなどと云うことより、兎に角も、夫人に逢いたかった。たゞ、訳もなく、惹き付けられた。たゞ、会うことが出来さえすれば、その事丈でも、非常に大きな欣びであるように思った。
躊躇していた足を、踏み返した。思い切って門を潜った。ピアノの音に連れて、浮れ出した若き舞踏者のように、彼の心もあやしき興奮で、ときめいた。