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しんじゅふじん

真珠夫人

菊池 寛

「大阪毎日新聞」、「東京日々新聞」1920(大正9年)6月9日~12月22日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 289,296 字 · 578 页

青空文庫

彼は、それを破ろうとするらしかった。が、彼の手は、たゞノートの表紙を滑べり廻る丈で、一枚の紙さえ破れなかった。

「捨てゝ――捨てゝ下さい! 海へ、海へ。」

彼は、懸命に苦しげな声を、振りしぼった。そして、哀願的な眸で、じいっと、信一郎を見詰めた。

信一郎は、大きく肯いた。

「承知しました。何か、外に用がありませんか。」

信一郎は、大声で、而も可なりの感激を以て、青年の耳許で叫んだ。本当は、何か遺言はありませんかと、云いたい所であった。が、そう云い出すことは、此のうら若い負傷者に取って、余りに気の毒に思われた。が、そう云ってもよいほど青年の呼吸は、迫っていた。

信一郎の言葉が、青年に通じたのだろう。彼は、それに応ずるように、右の手首を、高く差し上げようとするらしかった。信一郎は、不思議に思いながら、差し上げようとする右の手首に手を触れて見た。其処に、冷めたく堅い何かを感じたのである。夕暮の光に透して見ると、青年は腕時計をはめているのであった。

「時計ですか。此時計を何うするのです。」

烈しい苦痛に、歪んでいる青年の面に、又別な苦悶が現われていた。それは肉体的な苦悶とは、又別な――肉体の苦痛にも劣らないほどの――心の、魂の苦痛であるらしかった。