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しんじゅふじん

真珠夫人

菊池 寛

「大阪毎日新聞」、「東京日々新聞」1920(大正9年)6月9日~12月22日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 289,296 字 · 578 页

青空文庫

彼は、心から同乗することを欲していたのにも拘わらず、乗ることが何となく不安だった。その踏み段に足をかけることが、何だか行方知らぬ運命の岐路へ、一歩を踏み出すように不安だった。

「あら、何をそんなに遠慮していらっしゃるの。じゃ、妾が御先に失礼しますわ。」

そう云うと、夫人は軽やかに、紫のフェルトの草履で、踏台を軽く踏んで、ヒラリと車中の人になってしまった。

「さあ! 早くお乗りなさいませ。」

彼女は振り顧って、微笑と共に信一郎を麾ねいた。

相手が、そうまで何物にも囚われないように、奔放に振舞っているのに、男でありながら、こだわり通しにこだわっていることが、信一郎自身にも、厭になった。彼は、思い切って、踏台に足を踏みかけた。

信一郎は、車中に入ると、夫人と対角線的に、前方の腰かけを、引き出しながら、腰を掛けようとした。

夫人は駭いたように、それを制した。

「あら、そんなことをなさっちゃ、困りますわ。まあ、殿方にも似合わない、何と云う遠慮深い方でしょう。さあ此方へおかけなさい! 妾と並んで。そんなに遠慮なさるものじゃありませんよ。」

信一郎を、窘めるように、叱るように、夫人の言葉は力を持っていた。