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しんじゅふじん
真珠夫人
菊池 寛
「大阪毎日新聞」、「東京日々新聞」1920(大正9年)6月9日~12月22日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 289,296 字 · 578 页
信一郎の心が、こうした義憤的な興奮で、充された時だった。妻の静子は、――神の如く何事をも疑わない静子は、信一郎を促すように云った。
「急な御用でしたら、直ぐいらしっては、如何でございます。」
妻のそうした純な、少しの疑惑をも、挟まない言葉に、接するに付けても、信一郎は夫人に叩き返したいものが、もう一つ殖えたことに気が付いた。それは、夫人から受けた此の誘惑の手紙である。妻に対する自分の愛を、陰ながら、妻に誓うため、夫人の面に、この誘惑の手紙を、投げ返してやらねばならない。
信一郎の心は、今最後の決心に到達した。彼は、その白い面を、薄赤く興奮させながら、妻に云うともなく、運転手に命ずるともなく叫んだ。
「じゃ直ぐ引返すことにしよう。早くやってお呉れ!」
彼は、自分自身興奮のために、身体が軽く顫えるのを感じた。
「畏まりました。七分もかゝりません。」
そう云いながら、運転手と助手とは、軽快に飛び乗った。
「じゃ、静子、行って来るからね。ホンの一寸だ! 直ぐ帰って来るからね。」
信一郎は、小声で云い訳のように云いながら、妻の顔を、なるべく見ないように、車中の人となった。