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しんじゅふじん

真珠夫人

菊池 寛

「大阪毎日新聞」、「東京日々新聞」1920(大正9年)6月9日~12月22日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 289,296 字 · 578 页

青空文庫

否馳け始めた。恐ろしい悪夢から逃げるように。恐ろしい罪と恥とから逃げるように。彼女は、凡てを忘れて、若い牝鹿のように、逃げた。

夢中に、庭園を馳けぬけ、夢中に階段を馳け上り、夢中に廊下を走って、自分の寝室へ馳け込むと彼女は寝台へ身体を瓦破と投げ付けたまゝ、泣き伏した。

涙は、幾何流れても尽きなかった。悲しみは、幾何泣いても、薄らがなかった。

凡ては失われた。凡ては、彼女の心から奪われた。新しく得ようとした恋人と一緒に、古くから持っていたたゞ一人の母を。彼女の愛情生活の唯一の相手であった母を。

春の花園のように、光と愛と美しさとに、充ちていた美奈子の心は、此の嵐のために、吹き荒されて、跡には荒寥たる暗黒と悲哀の外は、何も残っていなかった。

恋人から、邪魔物扱いされていることが、悲しかった。が、それと同じに、母が――あれほど、自分には優しく、清浄である母が、男に対して、娼婦のように、なまめかしく、不誠実であることが、一番悲しかった。自分の頼み切った母が、夜そっと眼を覚して見ると、自分の傍には、いないで、有明の行燈を嘗めているのを発見した古い怪譚の中の少女のように、美奈子の心は、あさましい駭きで一杯だった。