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しんじゅふじん

真珠夫人

菊池 寛

「大阪毎日新聞」、「東京日々新聞」1920(大正9年)6月9日~12月22日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 289,296 字 · 578 页

青空文庫

父はやっぱり兄の書斎にいた。先刻と寸分違わない位置にいた。たゞ、傍にあった椅子を引き寄せて、腰を下したまゝじっと俯いているのだった。たった一人の男の子に、背き去られた父の顔を見ると、瑠璃子の眼には新しい涙が、また一時に湧いて来るのであった。此の頃、交じりかけた白髪が急に眼に立つように思った。

『歯が脱けて演説の時に声が洩れて困まる』と、此頃口癖のように云う通、口の辺が淋しく凋びているのが、急に眼に付くように思った。

一生を通じて、やって来た仕事が、自分の子から理解せられない、それほど淋しいことが、世の中にあるだろうかと思うと、瑠璃子は、父に言葉をかける力もなくなって、その儘床の上に、再び泣き崩れた。

最愛の娘の涙に誘われたのであろう。老いた政治家の頬にも、一条の涙の痕が印せられた。

「瑠璃子!」父の声には、先刻のような元気はなかった。

「はい!」瑠璃子は、涙声でかすかに答えた。

「出て行ったかい! 彼は?」遉に何処となく恩愛の情が纏わっている声だった。

「はい!」彼女の声は前よりも、力がなかった。

「いやいゝ。出て行くがいゝ。志を異にすれば親でない、子でない、血縁は続いていても路傍の人だ。