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しんじゅふじん

真珠夫人

菊池 寛

「大阪毎日新聞」、「東京日々新聞」1920(大正9年)6月9日~12月22日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 289,296 字 · 578 页

青空文庫

「そうか。やっぱり付いていたのか。」

信一郎の声も、やゝ顫いを帯びていた。

「何うかしたのですか。何うかしたのですか。」気の弱い静子の声は、可なり上ずッていた。

信一郎は、妻の気を落着けようと、可なり冷静に答えた。

「いや何うもしないのだ。たゞ、自動車が崖にぶっ突かってね。乗合わしていた大学生が負傷したのだ。」

「貴君は、何処もお負傷はなかったのですか。」

「運がよかったのだね。俺は、かすり傷一つ負わなかったのだ。」

「そしてその学生の方は。」

「重傷だね。助からないかも知れないよ。まあ奇禍と云うんだね。」

静子は、夫が免れた危険を想像する丈けで、可なり激しい感動に襲われたと見え、目を刮ったまゝ暫らくは物も云わなかった。

信一郎も、何だか不安になり始めた。奇禍に逢ったのは、大学生ばかりではないような気がした。自分も妻も、平和な気持を、滅茶々々にされた事が、可なり大きい禍であるように思った。が、そればかりでなく、時計やノートを受け継いだ事に依って、青年の恐ろしい運命をも、受け継いだような気がした。彼は、楽しく期待した通り静子に逢いながら、優しい言葉一つさえ、かけてやる事が出来なかった。