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しんじゅふじん

真珠夫人

菊池 寛

「大阪毎日新聞」、「東京日々新聞」1920(大正9年)6月9日~12月22日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 289,296 字 · 578 页

青空文庫

青年は、そう云いながら立ち上った。が、あまり興奮した為だろう、彼は、眼が眩んだように、よろめいた。

紳士は、周章て、青年の身体を支えた。

「いや、あまりに興奮なさっては困りますよ。お心を落着けて、気を静めて!」

が、青年はそれを振切った。

「いや、捨てゝ置いて下さい! 大丈夫です、大丈夫です!」

そう云いながら、青年は廊下へよろめきながら出た。『大丈夫です!』と、口では云ったものの、彼はもう決して、大丈夫ではなかった。

彼の頭の中には、激情の嵐が吹き荒れた。怒と恨との洪水が漲った。理性の燈火は、もうふッつりと消えてしまっていた。

「兄を弄んだ上に、この俺を!」

そう思うと、彼の全身の血は、怒のためにぐん/\と煮え返った。

「兄を弄んで間接に、殺して置きながら、まだ二月と経たない今、この俺を! 箱根まで誘い出して、謂われのない恥辱を与える!」

そう考えると、彼の頭の裡は、燃えた。身体中の筋肉が、異様に痙攣した。

もう世の中の他の凡ては、彼の頭から消え去った。国家も社会も法律も、父も母も妹も、恐怖も羞恥も、愛も同情も。たゞ恐ろしい憎み丈が残った。その憎みは、爆発薬のような烈しさで、彼の胸の裡を縦横にのたうった。