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しんじゅふじん

真珠夫人

菊池 寛

「大阪毎日新聞」、「東京日々新聞」1920(大正9年)6月9日~12月22日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 289,296 字 · 578 页

青空文庫

彼は、直ぐ同行を承諾しようと思った。が、その時に妻の静子の面影が、チラッと頭を掠め去った。新橋へ、人を見送りに行ったと云う以上、二時間もすれば帰って来るべき筈の夫を、夕餉の支度を了えて、ボンヤリと待ちあぐんでいる妻の邪気ない面影が、暫らく彼の頭を支配した。その妻を、十時過ぎ、恐らく十一時過ぎ迄も待ちあぐませることが、どんなに妻の心を傷ませることであるかは、彼にもハッキリと分っていた。

「如何でございます。そんなにお考えなくっても、手軽に定めて下さっても、およろしいじゃありませんか。」

夫人は躊躇している信一郎の心に、拍車を加えるように、やゝ高飛車にそう云った。信一郎の顔をじっと見詰めている夫人の高貴な厳かに美しい面が、信一郎の心の内の静子の慎しい可愛い面影を打ち消した。

「そうだ! 静子と過すべき晩は、これからの長い結婚生活に、幾夜だってある。飽き/\するほど幾夜だってある。が、こんな美しい夫人と、一緒に過すべき機会がそう幾度もあるだろうか。こんな浪漫的な美しい機会が、そう幾度だってあるだろうか。生涯に再びとは得がたいたゞ一度の機会であるかも知れない。