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しんじゅふじん

真珠夫人

菊池 寛

「大阪毎日新聞」、「東京日々新聞」1920(大正9年)6月9日~12月22日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 289,296 字 · 578 页

青空文庫

四

約束して下さいますでしょうね。」

「はあ! 結構です。」

信一郎は、何かの命令をでも、受けたように答えた。

「それでは後ほど。」

彼女は、軽く会釈すると、静まり返っている聴衆の間の通路を、怯れもせず遥か前方の自分の席へ帰って行った。信一郎は可なり熱心な眼付で、彼女を見送った。

彼女が、席に着こうとしたとき彼女の席の周囲にいた、多くの男性と女性とは、彼女が席に帰って来たのを、女王でもが、帰還したように、銘々に会釈した。彼女が多くの男性に囲まれているのを見ると、信一郎の心は、妙な不安と動揺とを感ぜずにはいられなかったのである。

四

それから、演奏が終ってしまうまで、信一郎は、ピアノの快い旋律と、瑠璃子夫人の残して行った魅惑的な移り香との中に、恍惚として夢のような時間を過してしまった。

最後の演奏が終って、華やかな拍手と共に、皆が立ち上ったとき、信一郎は夢から、さめたように席を立ち上った。

彼は、自分から先刻の約束を守るために、瑠璃子夫人を探し求めるほど大胆ではなかった。それかと云って、その儘帰ってしまうには、彼は夫人の美しさに、支配され過ぎていた。彼は聴衆に先立って階段を降りたものゝ、階段の下で誰かを待ってでもいるように、躊躇していた。