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みなもとよりとも
源頼朝
吉川 英治
「朝日新聞」1940(昭和15)年1月~10月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 306,118 字 · 613 页
「――ちぇっ、限りがねえ」
舌打ちして、男は崖の途中で坐ってしまった。被っている黒布を解いて汗をふき、それでまた、面をつつみ直した。
奥州の吉次だった。
草鞋ばきに脛当をしめ、袂もむすび上げている。革柄の野太刀を腰にくくって、敏活にうごく眼といい四肢といい、まるで夜盗か何ぞのように向う見ずであった。
猿のさけびが掻消えると、ぐわっ――と谷底の鳴るのが逆しまに、顔をふきあげてくる。そそり立っている岩峭に打つかってくる冷たい風と、渓川のうなりである。
「はてな。宵からお目にかかったのは、まだ猿ばかりだ。やはり光厳が打消したとおり、噂は噂だけのものか」
吉次はつぶやいて星を仰いだ。方角を按じて自分の来た所を確かめているらしい。まちがいなく、この下は僧正ヶ谷だと考える。
僧正ヶ谷ならもう会いそうなものにまだ会わないのだ。――と云っても、彼の期待して来たのは、天狗ではない。人間である。
もっぱら高い世間の噂と、自分の睨んでいる観察と、どっちが正しいか、それを突きとめる為に、彼はこの春、例年の一行よりも先へ都へ来て、去年もおととしも、
(今年こそは。今年こそは)