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みなもとよりとも
源頼朝
吉川 英治
「朝日新聞」1940(昭和15)年1月~10月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 306,118 字 · 613 页
二
そのうちに、何処かで、大きな人声がした。水の中である。馬が陸へ跳ね上がって来た。驚いて駈けてゆくと、早い流れに浮き沈みして、人間が流れてくる。
「ばかっ、どうした」
綱を投げて、救い上げてやると、それは馬を洗いに下りた雑兵で、余り流れが静かに見えるし、浅いとばかり思っていたので、つい深みへ堕ちて溺れかけたのだという。
「あははは。まだ敵へ、矢一すじも射ぬうちに、水に溺れたりなどしたら、故郷の親兄弟も、世間へ顔向けがなりはしないぞ。あわて者めが」
笑い声が高いので、陣地の陰から一人の侍が出て来て、叱りつけた。
「何をしておるっ。身をかくせっ。馬を後ろへ曳き込めろ。この薄月夜に、いい的を出しておくようなものだ」
兵たちは、あわてて陣地へ駈けこんだ。楯や物陰には、むっとする程、汗くさい人いきれがしていた。
「いつ来るか?」
と、敵の夜襲に備えて、夕方、兵糧をつかった後は、身じろぎもせず、弓をにぎり、太刀をつかみ、一刻一刻、息をこらして、更けゆく富士川の水を睨んでいるのだった。
夜が明けた。
敵は来ない。――いや一矢の矢うなりも切って来ないのだ。稀、征矢のごとく水をかすめるのは、羽の青い小禽だった。