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みなもとよりとも
源頼朝
吉川 英治
「朝日新聞」1940(昭和15)年1月~10月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 306,118 字 · 613 页
この家は、膏薬練りを業としているので、母屋のほうでは、伜たちや男どもが、薬研の音や薬練りをしていた。
「飯を握って、味噌など添え、あの童に与えて追ん出してやれ。山路の方角を教えてな」
仏心のある男とみえて、かたく妻にいいつけた。
ゆり起されると共に、頼朝はそこを出なければならなかった。
生れて初めて、人に食物を恵まれた時は、さすがに涙がこぼれた。それも山へ去ってから喰べた。
浅井の北郡は山深い。彼は日が出る方へ出る方へと自然に歩いた。小平という辺で一人の尼に会った。
「どこへ行きなさる」
「青墓へ」
「山越えで」
尼は顔を振った。
不破の関を通るならとにかく、この雪では美濃へ山越えなど思いもよらぬ事だという。
「まあ、庵へ来なされ」
尼は、凡人の子でないものと見て、頼朝を誘った。けれど、何も問わなかった。およそ一月余りも、頼朝は尼寺の天井裏に寝起きしていた。
暗くて、窮屈で、寒かった。
藁や莚を持ちこんで、頼朝は尼がいいという日まで、じっと待っていた。その間、毎日毎日、そらんじる程よく聞いたのは、尼が朝暮に誦む法華経の声であった。
経文の意味は元より酌めないが、天井裏で聞いていると、頼朝は何だか楽しくなった。