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みなもとよりとも

源頼朝

吉川 英治

「朝日新聞」1940(昭和15)年1月~10月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 306,118 字 · 613 页

青空文庫

身も世もなく、悲しみもするのだった。――けれどその悲涙のうちには、誰も窺い知れないほど、冷やかな智慧もひそかに働いていた。

(どう逃げようか? ……。逃げた後は、どこへ身を隠そうか)

何も知らない輿入れの列につづく人々は、また一しきり祝歌を謡いはやしながら、やがて御所之内の唐橋から花嫁の輿は揺りすすめられた。濠の水もまっ赤なほど、夥しい松明はそこを渡った。満山の木々も染まるほど、館の燎火は燃えていた。――祝歌はながれて行く――町の民家も軒端軒端に、篝をたいていた。祝歌につづく人馬や揺れ燦く輿の蓋は、その美しい焔の中を流れて行った。

が、宿場を出端れると、道はまっ暗だった。ただ護りの侍どもが振りかざす松明のみがいぶって行く。

さあっと、野を横ざまに、一時雨掃いて行った。

道はひどく泥濘っていた。

晴着を雨にぬらした人々は、寒さにふるえあがった。

けれど、山之木郷の婚家までは、わずか二里ほどしかなかった。行く手の夜空に黒々と望まれる韮山のすそである。

程なく。

その韮山のすそにも、ちらちらと、たくさんな灯が見え初めた。山木判官の邸の森であろう。――そこよりもっと間近に一かたまりの焔が、坩堝の如く、うごいて見えるのは、出迎えの者が、村の口まで出ているものと思われる。