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しんらん

親鸞

吉川 英治

「名古屋新聞」1934(昭和9)年9月28日~1935(昭和10)年8月9日、1936(昭和11)年1月19日~8月<br>「台湾日日新報 夕刊」1934(昭和9)年9月30日~1935(昭和10)年8月12日、1936(昭和11)年1月7日~8月4日<br>「京城日報」1934(昭和9)年9月~1935(昭和10)年8月、1936(昭和11)年1月10日~8月<br>「神戸新聞」1936(昭和11)年1月5日~8月6日<br>「福日新聞」「北海タイムス」1935(昭和10)年9月~1936(昭和11)年8月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 566,138 字 · 1127 页

青空文庫

「あっ……どうなされました」

「性善坊か」範宴の声は静かだった、壺と牡丹を微塵に砕いた人とはみえない、夕明りの下に立って、凄いほど蒼白くその顔は見えたけれど、雲の切れ間を見つけて一縷の光を投げかけているような眉にも見える。

「わしの部屋の隅に竹の杖があろう」

「杖ですか」

「そうだ、苦行の旅に、この身と共に、幾年も歩いたあの竹杖。それを持って庭へ下りてくれ」

「どうなさるのですか」いわるるまま、杖を持ってくると、範宴は大地に坐っていた。ひざまずいてさし出すと、範宴はその杖を性善坊に持たせて、首を垂れていった。

「性善坊、おん身を仏陀と思い参らすゆえ、おん身はかりに仏陀となれ。わしは仏子にあるまじい心病にとりつかれ恥かしい迷路を幾日も踏み迷うていた、犯さねどすでに心は汚罪を冒したに等しい。――打ってくれい。その竹杖で打たれたら、過去の苦行が甦えってこよう。皮肉の破れるまで打て、わしを師と思わず打て、仏陀のお怒りをその杖にこめて――」

霧の扉

一

あらゆるものを断ちきってまっしぐらに歩み出した闇であった。範宴は四、五町ほど駈けてから聖光院の方を振りかえった。

門の潜り戸を開けて、その前に立って見送っていた性善坊の姿もすでに見えない、しきりと天地の寂寞を翔り立てる暗い風があるばかりだった。