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みなもとよりとも

源頼朝

吉川 英治

「朝日新聞」1940(昭和15)年1月~10月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 306,118 字 · 613 页

青空文庫

谷と空

一

谷と空

一

枕草子に「近くて遠きもの鞍馬のつづら折――」などと見える。

陽が暮れたら通う者はない。あれば大薙刀を抱えた山法師か猿ぐらいなもの。

それにまた、麓の市原野には、兇猛な野盗が今も出ると信じられている。むかし源頼光が鬼童丸を斬ったとか、著聞集に見える追剥のはなしなどが、みなこの辺りの事となって、里の者や旅人の頭に沁みこんでいるからであろう。

表の麓口さえそうである。道とてない裏山裏谷は、ほとんど想像の世界となっている。わけて鞍馬寺から西北へ十町という僧正ヶ谷には、古くから太郎坊とよぶ天狗が住んでいて、そこから雲間へ光のさしている時は、国々の大天狗小天狗が会合している夜だと、里人は固く怖れ信じている。

近づくな。谷を覗くな。

祟りをうけるぞ。

そうした里の合言葉さえあるのに、これはまた、どうしたうかつ者だろうか、ただ一人、道もない峰を、闇の奈落へ下りてゆく男がいる。

「叱っ……。畜生っ」

男は時々、足もとを探って、梢へ石を投げた。

猿の群れであろう。梢から梢へ、ざわざわと駈け廻る音がひどい。男が、逃げるように崖を辷り降りると、また追って来るのである。