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しんらん

親鸞

吉川 英治

「名古屋新聞」1934(昭和9)年9月28日~1935(昭和10)年8月9日、1936(昭和11)年1月19日~8月<br>「台湾日日新報 夕刊」1934(昭和9)年9月30日~1935(昭和10)年8月12日、1936(昭和11)年1月7日~8月4日<br>「京城日報」1934(昭和9)年9月~1935(昭和10)年8月、1936(昭和11)年1月10日~8月<br>「神戸新聞」1936(昭和11)年1月5日~8月6日<br>「福日新聞」「北海タイムス」1935(昭和10)年9月~1936(昭和11)年8月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 566,138 字 · 1127 页

青空文庫

ほう、ほう、と鹿の啼く声がする――。それに気づいて眸をこらして見ると、牝鹿や牡鹿が、月の夜を戯れつつさまよっているのだった。範宴の腰をかけた杉の根のまわりにも、一、二疋寝そべっていて、彼が手を伸べると、人馴れた眸を向けて、体をそばへ摺り寄せてくる。

「おう」範宴は鹿の背を撫でながら膝へ抱きよせた。若い牝鹿の毛なみはつやつやとして、肌は温かだった。

「鹿は、餌に飢えているらしいが。……はて、何もやる物がない」と、範宴はつぶやいて、

「飢えているといえば、わしにも何か飢えが感じられる。食ではない。眠りでも、安逸でもない。……この飢えた気持は、母の肌を恋うような血しおの淋しさだ。たまたま、山を下りて、俗界の灯を見、世間の享楽をのぞいたので、若い血が、うずきたがるのだろう」

彼は牝鹿の体温をおそれるように、膝から突き退けようとした。けれど、鹿は動こうともしなかった。

思春期の若い鹿たちは、牝鹿の声にあやつられて、追いつ追われつ夜を忘れているのだった。範宴は、立ちあがって、もいちど、猿沢の池の方へ戻ってみた。

ここにはまた、町の男女が、月見にあるいていた。恋をささやきながら肩を並べて行く男女は、しょんぼりと、さまよっている範宴のすがたを振向いて、気の毒そうな眼を投げた。