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しんらん

親鸞

吉川 英治

「名古屋新聞」1934(昭和9)年9月28日~1935(昭和10)年8月9日、1936(昭和11)年1月19日~8月<br>「台湾日日新報 夕刊」1934(昭和9)年9月30日~1935(昭和10)年8月12日、1936(昭和11)年1月7日~8月4日<br>「京城日報」1934(昭和9)年9月~1935(昭和10)年8月、1936(昭和11)年1月10日~8月<br>「神戸新聞」1936(昭和11)年1月5日~8月6日<br>「福日新聞」「北海タイムス」1935(昭和10)年9月~1936(昭和11)年8月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 566,138 字 · 1127 页

青空文庫

大地へ手をつかえて、

「知らぬこととは申せ、無礼の罪、おゆるし下さいませ」

「これこそ、あらたかな御仏の御加護と申すものでございましょう」

「館のおよろこびもいかばかりか……」

「いずれ改めてご挨拶に出向きまする」

「ああ、ほっとした」

「ありがたい」と、いってもいってもいい足りないような感謝の声をくりかえして、人々は、姫の側近くに集まった。覚明は牛の手綱を渡して、

「では、確かに、姫の身は、お渡しいたすぞ」

「はい。……それでは」と月輪家の者が代って曳いた。姫は、車の裡から、

「この車まで、いただいては」と、遠慮していった。

「どうぞ、そのまま」範宴は、姫の顔を、前よりも鮮やかに見た。

姫は、涙でいっぱいになった眸で、頭を下げた。その黒髪の銀釵はもう揺れだした軌に燦々とうごいていた。召使たちは、何分にもお館の心配を一刻もはやく安んぜねばと急ぐように、車の返却や礼のことばは明日改めてとばかり先を焦いて曳いて行った。

廻る輪の光を迅く描いて、軌は白い道に二筋の痕をのこして遠ざかった。キリ、キリ、と朧な闇に消えてゆく車の音に、範宴は、いつまでも立ちすくんでいた。おそろしい力が、今自分の信念もいや生命までも肉と魂とを引き裂いて胸のうちから引っ張ってゆくのではないかと気づいて、慄然と、われに回った眼で、雲母曇りの月を探した。