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しんらん

親鸞

吉川 英治

「名古屋新聞」1934(昭和9)年9月28日~1935(昭和10)年8月9日、1936(昭和11)年1月19日~8月<br>「台湾日日新報 夕刊」1934(昭和9)年9月30日~1935(昭和10)年8月12日、1936(昭和11)年1月7日~8月4日<br>「京城日報」1934(昭和9)年9月~1935(昭和10)年8月、1936(昭和11)年1月10日~8月<br>「神戸新聞」1936(昭和11)年1月5日~8月6日<br>「福日新聞」「北海タイムス」1935(昭和10)年9月~1936(昭和11)年8月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 566,138 字 · 1127 页

青空文庫

外へ出た。彼方を見、此方を見廻したが、もう兄のすがたは見えない。山門の方まで駈けてみる。そこにも見えないのである。

峰と峰とのあいだの空が研がれた鏡のように明るかった。寒さは宵とは比較にならない、この寒気を冒して、この深夜をこえて、兄は一体どこへ出て行ったのか。

翌る朝になってみると、兄は、自分のそばに法衣も解かずに寝ていた。眠る間があったのだろうか、さりげなく朝の食事はひとつ座に着いて喫している。

「兄君、ゆうべあれから、どこかへお出になりましたな」

「うむ、行った」それきりしか問わなかったし、それきりしか答えもしない。範宴はすぐ斎堂を立って、

「わしは、ずっと、黙想を日課にしておる。行室におるあいだは、入ってくれるな」といった。

昼間は、顔をあわす折もないし、夜はまた、ただ一人でどこかへ範宴が出て行ってしまう。一夜も、欠かした様子がない。

山へかくれた去年から今年への間に、範宴の心境は幾たびとなく苦悶のうちに転変していた。死を決して、食を断ったという噂も事実であろう。この寂土から現実の社会を思って、種々な自分を中心として渦まくものの声や相を、眼に見、耳に聞き、生きながら業火の中にあるような幾月の日も送っていたに違いない。