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しんぺんちゅうしんぐら
新編忠臣蔵
吉川 英治
「日の出」1935(昭和10)年1月号~1937(昭和12)年1月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 337,181 字 · 676 页
『幸っ。……幸っ……』
大きな声で云って振顧った。――と、すぐ次の小部屋の襖の下で、お幸のすすり泣きの声が聞えていたのである。弥兵衛老人は、もう履物の上に片脚を下ろしていたが、
『ば! ばかっ! ……。安兵衛にその声を聞かせたら、愛想をつかされるぞよ。――いや其方より、この舅が気まりが悪いわえ』
条右衛門は先へ廻って、老人の足もとを気づかいながら、
『叔父上、お履物は、それでよろしゅうございますか』
『む。……支度は万端、杉野の宅でいたす』
軒下を出て、老人はふと空を見上げていた。大川を漕ぎ下る夜船の櫓音が泣くように軋んでゆく。
『――お幸、言伝けはないか。――ないか、安兵衛に』
それには答えないで、お幸の声が窓から云った。
『御機嫌ようお出まし遊ばしませ。……後の事は、幸がおりますから、お心置きなく』
『ウム、ウム……安兵衛にもその通り云うてやろう。ではおまえ達も、機嫌よく暮らせよ』
雪はかたく氷っていた。ざく、ざく、と三人の踏みしめて行く跫音が暫く聞えていた。何かつい其処ら辺りまで用達に出て行くような老人であった。――お幸も彼の老妻も、その人が二度と帰って来ない約束で出て行く人とは、何うしても思われなかった。