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しんぺんちゅうしんぐら

新編忠臣蔵

吉川 英治

「日の出」1935(昭和10)年1月号~1937(昭和12)年1月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 337,181 字 · 676 页

青空文庫

お粂とおつや

右衛門七の声が二階ですぐ、

『はい』

と聞えて、起つ気配がした。

降りて来て――梯子段の蔭に佇立んでいるお粂のすがたを見ると、彼は、ちょっと、顔を紅らめながら、

『――何ですか、叔父さん』

と、神崎与五郎の善兵衛へ向って云う。

『ちょっと、店頭を見て来てくれ』

『お店ですか』

右衛門七は、店へ出て、暖簾の外まで、注意ぶかく覗いた上、

『べつに何も変った事はございませんが……何です? ……何かあったんですか』

『吉良様の御家来清水一学様が今そこに立って、二階を見上げていたと――お粂さんが云うのだが』

『人違いでしょう』

『そうかも知れないね』

善兵衛は慰め顔に、悄れている彼女のすがたへ眸を向け、

『――お粂さん、誰もいないそうですよ。今のうちにお屋敷へ帰れば、何の事もありはしない。手前が裏門まで、送って行って上げましょうか』

『いいえ……』

お粂はかぶりを振ったが、梯子段の下を動こうとはしない。もう陽が暮れたので、屋敷へは帰らねばならぬし、右衛門七のそばには何時までもいたい様子なのだった。

『…………』

双つの袂を手に持って、粂はほろほろと白い頬に涙のすじを描いていた。