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しんぺんちゅうしんぐら

新編忠臣蔵

吉川 英治

「日の出」1935(昭和10)年1月号~1937(昭和12)年1月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 337,181 字 · 676 页

青空文庫

この世の辻

この世の辻

食物も、眠りも、あらゆる意欲のない空間を、ただ揺られに揺られて行く早駕の中の昼夜が続いた。

まったく、病人の顔色である。心得のある藤左衛門も、さすがに、晒布の吊手にすがったまま、三日目は、眼を閉じたきりだった。

『浅野だ、浅野の早駕だ』

と何処を走っていても、人のある所にはそんな声が聞えた。城下は勿論、世評は挙げて、江戸で勃発した刃傷事件で持ち切っている。

内匠頭の為た事を、武士として、当然だとする者もあるし、短慮である、世間知らずの坊ンチの癇癪だと、非難する者もかなり多い。

殊に京都を横ぎる際には、

『不敬者の家来や』

と、云う痛い声が耳を突いた。

勅使の御馳走人でありながら、刃傷に及ぶなどとは、近世の大名が、平素に、幕府のあることを知って、朝廷をわすれているから、こんな事も出来するのだという評なのである。

吉良へ対しても、

『あれは、公卿扱いに狎れた、摺れっからしやで』

と反感は昂まっていたが、不敬という譏りは、加害者の内匠頭の方へ、当然傾いていた。

藤左衛門は、愕然として通った。

まだ、正しい噂ならいいが、上方には、ずいぶん飛んでもない誤報が伝わっているらしく、駕籠へ、石をぶつけた往来人もあった。