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しんぺんちゅうしんぐら
新編忠臣蔵
吉川 英治
「日の出」1935(昭和10)年1月号~1937(昭和12)年1月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 337,181 字 · 676 页
うら・おもて
と思うまに速い跫音は、ついと向うへ立ち去った。檜張りの厚い板床が、内匠頭の膝の下で、ミシリと鳴った。
『殿……。と、殿! ……』
奥田孫太夫の拳であった。ふるえながら、主君の背後に、顔を埋めて、しっかと、内匠頭の印籠腰をつかんで放さないのである。全五体を躍りあげて、
(おのれっ!)
と叫ぼうとする主人の激越な血と、歯の根を噛み、眼を閉じて、堪忍の二字を念じている家来の血とは、一つのもののように、わなわな、骨ぶるいをしたまま、熱涙を嚥み合っていた。
うら・おもて
夜は、朧な月とみえる。
黒い桜花の影が、障子に雲のような斑を映していた。夜霞のしっとりと感じられる遠くには、櫓の音がする。船唄がながれて行く。――内匠頭夫人は、独りで坐っていた。
人の羨む大名の生活や、その内室の身が、何んなに辛い心のものか、あの大川に働く船人たちは知るまいと、沁々思う。
彼女は、まだ夕食も摂らなかった。昼間、良人の実弟にあたる木挽町の浅野大学が来ての話では、勅使御登城の第二日の今日も、つつがなく済んだらしいという事なので、
『ああ……』
思わず、この一室で、暮れて行く日に、掌をあわせて、俯し拝んだ。