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しんぺんちゅうしんぐら

新編忠臣蔵

吉川 英治

「日の出」1935(昭和10)年1月号~1937(昭和12)年1月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 337,181 字 · 676 页

青空文庫

憂いを吐く人

『――あ。大石殿』

後の者は、足を迅めて、呼びとめた。

鶯茶の紋羽織に、襞のよく切れている袴を穿き、白足袋に福草履という身装なのである。三十ちょっと越えたくらいな年頃で、痩せ形ではあり、色の小白い顔を、茄子紺の頭巾でくるんでいるので、京侍のように柔弱らしくもあるが、顔はきりっと緊まっていて、眉が太い。

『――もし、路傍で失礼ですが、大石殿ではありませぬか』

やむを得ず、内蔵助は編笠をそっと回らして、

『おう……』

と気がついたように云った。

『どなたかと思うたら、荷田春満大人ですな』

『そうです、意外な所で』

『まったく!』

『何日から江戸表に』

『いや……とんと定めのない浪人の境遇、何日のことであったやら』

『お住居は』

それもやむなく、

『されば、ついこの近くに』

『ほ、御子息も』

『されば、侘しい限りでの』

こう話し込まれては、ちょっと粗茶でもと云わないわけにゆかなかった。春満と内蔵助とは、先年、京都でも会っているし、旧知の学友という間がらでもあった。

荷田春満というのは、和歌や国学の上につかっている雅名であって、本名は羽倉斎といった。まだ、学徒としては、若いほうであるが、国学では大家の列にかぞえられているし、京都にいた頃は、大炊御門右大臣の庇護をうけ、京都稲荷の神官をしていた事もある。