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しんらん

親鸞

吉川 英治

「名古屋新聞」1934(昭和9)年9月28日~1935(昭和10)年8月9日、1936(昭和11)年1月19日~8月<br>「台湾日日新報 夕刊」1934(昭和9)年9月30日~1935(昭和10)年8月12日、1936(昭和11)年1月7日~8月4日<br>「京城日報」1934(昭和9)年9月~1935(昭和10)年8月、1936(昭和11)年1月10日~8月<br>「神戸新聞」1936(昭和11)年1月5日~8月6日<br>「福日新聞」「北海タイムス」1935(昭和10)年9月~1936(昭和11)年8月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 566,138 字 · 1127 页

青空文庫

二

一椀の食も、一滴の湯も、喉にとおしていないのである。声はかれ、眸はかすみ、さしも意志のつよい範宴もその夕がたには、がたっと、痩せおとろえた細い手を床について、しばらく、意識もなかった様子である。

すぐ御葉山の下の鐘楼の鐘が、耳もとで鳴るように、いんいんと初更をつげわたると、範宴は、はっとわれに回って、思わず大喝に、

「南無っ。聖徳太子」そして、廟窟の石の扉に向い、無我の掌をかたくあわせた。

「――迷える凡愚範宴に、求通のみちを教えたまえ。この肉身、この形骸を、艱苦に打ちくだき給わんもよし。ただ、一道の光と信とを与えたまえ」思念をこらすと、落ちくぼんだ彼のひとみは、あたかも、の窓のように、灼熱の光をおびて、唇は一文字にかたくむすばれて、太子の廟窟から求める声があるか、この身ここに朽ち死ぬか、不退の膝を、磐石のようにくみなおした。

彼が、この古廟に詣でて、こうした思念の闘いに坐したのは、必ずしも、途中の出来ごころや偶然ではない。範宴は夙くから、聖徳太子のなしたもうた大業と御生涯とを、景慕していて、折もあらば、太子の古廟にこもって、夢になりと、その御面影を現身にえがいてみたいと宿望にしていたのである。