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しんぺんちゅうしんぐら
新編忠臣蔵
吉川 英治
「日の出」1935(昭和10)年1月号~1937(昭和12)年1月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 337,181 字 · 676 页
眸がぶつかると、急に世辞笑いをして、
『旦那、もうすこし、早めに糸を上げてごらんなさい。少し遅すぎますな』
一学は、独り言のように、
『戻ろう』
するりと竿を上げると、餌を銜えた小さな鮠が一尾ぶら下っていた。
町人がまた笑う。
一学は可笑しくもない顔つきで、草むらに落ちた鮠をそのまま、糸を巻いて、起ち上った。
そこから遠くないところに、彼の老いたる両親のいる実家がある。この横須賀村に古い代々の土着農で、二棟の大きな母屋や、茅葺門や、生樹垣や欅の防風林や、すべて彼の幼少の頃から少しも変っていない。
植付に忙しいこの頃なので、家の者はみんな田へ出ている。唯一人、縁先で孫の縫物をしている老母が、一学の姿を見ると、
『四郎べ。今日はすこしゃア、釣ったけ?』
と云った。
四郎平というのは、一学の幼名だった。この母は、百姓の肚から百石扶持の侍を生んだことも、さして誇りとはしていないらしく、幾歳になっても、洟垂らし時代のまま、四郎べ、四郎べで通している。
一学も亦、田舎言葉で、
『駄目ださ。根っから釣れんで、くそ面白くもねえで帰えって来た』
『ぬしゃあ、剣術はうめえが、釣は洟垂れ頃から下手ずら』