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しんぺんちゅうしんぐら

新編忠臣蔵

吉川 英治

「日の出」1935(昭和10)年1月号~1937(昭和12)年1月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 337,181 字 · 676 页

青空文庫

そういう時世の中にあって、浅野家だけは、ひっそりと、質素であった。名儒、山鹿素行の感化も大いにあったし、藩祖以来の素朴な士風が、まだ、元禄の腐えた時風に同調していない。

従って、藩の財政も余裕があった。赤穂塩の年産も巨額きなものだったが、要するに、内匠頭夫婦の驕らないことと、士風の堅実が、何よりも、身代なのである。

『よい湯加減。夫人――もう一ぷく』

『はい』

夫人は、風呂先の前に、坐りなおす。

夫婦の趣味といえば、茶、香道、書画ぐらいなもの。そして、趣味にも、朝夕の起臥にも、夫婦の仲のよさは、家来の目にも、うらやましく見えるほどであった。

幸福な陽ざしである。あくまで、平和で、うららかな三月三日。

ちょうど、今日は又、節句でもあった。

寝やれ、寝てたも

よいお子よ

宵の節句にゃ、何買うた

伽羅の糸巻

銀の針

泣くな、いびるな

よいお子よ

宵の節句にゃ、なに縫うた

鉢の木帯に

まろ小袖……

何処かで誰が唄うのか、哀々とした子守唄の節と、嬰児の泣き声が聞えてくる。――邸内であろうはずはないから、塀の外から洩れて来るのにちがいなかった。外の石垣の下には、よく繋り舟がもやって、何うかすると、船頭の濁み声などもするから、船世帯の船頭の女房が、乳ぶさに、泣く子をあやして居るのであろう。