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しんぺんちゅうしんぐら
新編忠臣蔵
吉川 英治
「日の出」1935(昭和10)年1月号~1937(昭和12)年1月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 337,181 字 · 676 页
――だが、案外世間は忘れっぽい。
幾人か、顔を覚えている者とすれちがったが、声もかけられない。与五郎は、先にいた家のまえも通ってみた。
『……あ、まだ空いているのか』
閉まっている二階の戸を見あげて、何かさびしい気持に打たれた。わずかな間にも、刻々と変ってゆく自分がはっきり考え出される。
『……おや』
ふと、彼は足を止めた。――雨に朽ちている廂の下に、きれいな娘が濡れているのだった。小間物の暖簾も今は掛けてない空家の軒下に佇んで、何を求めているのか、娘は、
『――簪くださいな。……有りません……じゃあ鬢附油』
低声で、そんな事を云いながら、雨戸を撫でまわしているのだった。
天機
霏々と、霧雨は寒く、風に撲られてゆく――
さあっと、そこの空家の戸へも、吹きつけるのであった。
――が、娘は、寒さも感じないらしい。鹿の子と繻子の合せ帯が、もう水をふくんで、雫をこぼしているほどだった。
とん、とん、とん――
白い拳が、かろく戸をたたいている。
『右衛門七さん、あずき屋の右衛門七さん……』
呼んで、顔を押しつけて、
『まだ寝ているの。――鬢附油を下さいましよ。――開けて、この戸を、ネ、右衛門七さんてば』