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しんらん

親鸞

吉川 英治

「名古屋新聞」1934(昭和9)年9月28日~1935(昭和10)年8月9日、1936(昭和11)年1月19日~8月<br>「台湾日日新報 夕刊」1934(昭和9)年9月30日~1935(昭和10)年8月12日、1936(昭和11)年1月7日~8月4日<br>「京城日報」1934(昭和9)年9月~1935(昭和10)年8月、1936(昭和11)年1月10日~8月<br>「神戸新聞」1936(昭和11)年1月5日~8月6日<br>「福日新聞」「北海タイムス」1935(昭和10)年9月~1936(昭和11)年8月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 566,138 字 · 1127 页

青空文庫

ぱっと、彼はそこを逃げだした、家の方へも行かなかった。そのまま足を他国へ向けて、永久にこの土地を捨てるつもりだった。

だが――村境まで来て、すこし落着くと、それもまずいと思った。自分から土地を捨てて逃げれば、お吉の殺害を、自分で証明していることになる。

いくら脛を飛ばしても、領主の令が伝われば、郡境や村境の木戸で、すぐ捕まるにきまっている。半日とは逃げきれないかも知れない。

「――山へ」と、眼を上げたが、意地わるく、胃の腑は空になっていた、それに、炭焼や木樵まで、自分の顔を知らない者はない。

「……そうだ」彼は、その時もう高くのぼっている朝の陽で、初めて、自分のすがたを見直した。さだめし血みどろになっているであろうと思った、着物にも、何も血らしいものはついていないのだ。

だんだん腹がすわってきた。平次郎は、田へ下りて水で顔や手足を洗い、農家の裏にあった藁草履を足に履いた。そして、わが家へも廻らずに、そのまま元の柳島へ引っ返してきたのである。

――入仏式の鐘はしきりに鳴りだしていた。この日は、嘉禄元年の四月の半ばであった。沃野には菜の花がけむっていた、筑波も、下野の山々も、霞のうちから、あきらかに紫いろの山襞を描いていた。