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しんぺんちゅうしんぐら
新編忠臣蔵
吉川 英治
「日の出」1935(昭和10)年1月号~1937(昭和12)年1月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 337,181 字 · 676 页
藤左衛門のさし出した書面を手に取って、内蔵助は黙読していた。一行ごとに、彼の面色は血の気を沈めて行くのであったが、凪の底を荒れている土用波のように、噪がしい容子は小肥りな体のどこにも現われては見えないのである。
唯、読み了って――
『ううむ』
と、結んだ唇のうちで呻くような嘆息がひくく聞えた。濃くて太い眉が、遽に、遠くでも見るように庭面へ向って、きっと動いたことだけは確かだった。
チチ、チチと小禽の声に、廂の外はもう曙いろの朝にかがやいていた。彼が鍾愛して措かない糸垂れ桜の巨木は、わけても、この庭の王妃のように咲き誇っていたが、常とちがって、今朝は、内蔵助の眸に、その白い花の一つ一つが、不吉な妖虫の簇がりのようにすら映ってくる。
『大儀でござった。退って、十分に休養なされい』
二人へ向って、こう労わりの言葉をかけると、内蔵助は立ち上って、自身の居間へ入った。家族揃ってする朝の食事は、それからであったらしく、お城の六刻が鳴ってから暫くすると、やがて登城の支度をした彼の姿が、妻や、主税の憂わしげな顔に送られて、玄関を踏みだしていた。
と――煙硝番の横川勘平が、玄関脇に立っていて、彼のすがたを見ると、あわてて辞儀をした。