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しんぺんちゅうしんぐら

新編忠臣蔵

吉川 英治

「日の出」1935(昭和10)年1月号~1937(昭和12)年1月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 337,181 字 · 676 页

青空文庫

水に押されるように、彼は岸に添ってあるいた。

屋敷はそこからいくらもない。

――吉良上野介といえば、二十二歳の若いころから、幕府の使として幾度となく上洛し、仙洞御所の造営にもかかわったことがあるし、後西院天皇の御譲位にも、父の義冬とともに朝幕のあいだに働き、また践祚の賀使にも立ったりして、六十歳の今日にいたるまで、堂上の公卿たちには数知れない知己と、近親者とをもっている。したがって、吉良が、その方面に、先を越して策を為そうと思えば為すこともできるし、吉良自身が求めなくとも、朝廷を繞るそういう公卿たちが事実の表面と感情だけにうごいて、不敬の罪を鳴らしたら、赤穂一藩は、いかにして、申しひらきが立つか、大罪を謝してよいか。

思うと、内蔵助は、背すじへ戦慄が走ってくる。

『籠城――自刃――退散――。何うするも、その一点が心がかり。十内に会うての上じゃ』

そう自分で結論をつけた時に、はっと、彼は立ちどまった。いつか自家の長屋門に突き当っているのである。

すると、その土塀の裾を、蝙蝠のような黒い人影が、ひらりと後へ戻って行った。

『…………』

内蔵助が、振向いて、一瞥をあたえると、図々しく、塀にはりついていたその男は、居たたまれなくなったか、つつつと、角から横へかくれてしまった。