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しんぺんちゅうしんぐら
新編忠臣蔵
吉川 英治
「日の出」1935(昭和10)年1月号~1937(昭和12)年1月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 337,181 字 · 676 页
芹の香に、良雪はふと膳へ顔を向ける。杯を取って一献という余裕を相手に見せたが、それを内蔵助の考えこんでいる顔の前へ出して、
『息つぎに』
『いただこう』
『飲られるか。――酌ぐか』
銚子を持ちながら、良雪は念を押すのである。自分があんなに云って酒を出させて措きながら、その酒が出ると、
『御主君の服喪にある其許に、こう酌いだら、悪かろうな、よそうか』
と、云うのである。
『注いでいただこう』
『よろしいか』
『不自由な身はもちません。さむらい暮しは、ひろびろと』
良雪はふとい喉を仰に伸ばして膝をたたいた。天井で笑っているような愉快な声が部屋にいっぱいになった。そして、内蔵助の杯へは注がないで、銚子の酒を自分の湯呑にあけて飲んでしまった。
『それだわさ。坊主の道もひろく、武士道もひろびろがいい』
何の為の碁なのであろうか。彼の袂で石の目はもう崩れている、盤の下へこぼれたのを拾ってざらざらと惜気もなく仕舞いこんでしまう。そして何度も繰返しながら、
『ひろびろと、それだわさ、安心した。これで安心した』
汚ない踵を草履にのせて、飄々と裏庭から帰ってゆくのである。内蔵助は見送りに立ったまま縁端に背を見せていたが、その背に何かあらい人声を遠く感じて振り顧った。