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しんぺんちゅうしんぐら

新編忠臣蔵

吉川 英治

「日の出」1935(昭和10)年1月号~1937(昭和12)年1月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 337,181 字 · 676 页

青空文庫

で――木村丈八も、ちょうど、江戸へもどって病床についたのを最後として、もう以前のような仕事に焦躁る事はしなかった。頻りと、焦躁ったり恐怖したりして、赤穂方の密偵に対して、密偵を以て報いたり、風の音や、犬の出入りにも神経を突ッついているのは、皆、この邸内にいる古参と新参の面々なのである。

『話がちと理に落ちた。――飲もうか、木村』

『うむ、いろいろとまだ話がある。飲みながらぽつぽつ話そう。――だがその前に、ちょっと、御挨拶しておこうか』

次の間の薄暗い机の上に、線香の火が見えたので、木村丈八は、その前へ行って黙拝した。女気がない家である。机の上には、一杯の水と花が供えてあるだけだったが、それも、一学自身の手でしたものと見れば寔にわびしい。燈明もない。位牌らしいものもない。ただ、机の前の壁に、細い紙片が貼りつけてあった。丈八は、何気なくその文字を見て、悚然と、もいちど両掌を合せて伏し拝んでしまった。

おふくろ様    元禄十五年十月歿

清水一学     同年中歿

母子ふたり、位牌はもう出来ていたのである。

恋でない恋

ひいっ――と泣くような女の叫び声なのである。