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しんぺんちゅうしんぐら

新編忠臣蔵

吉川 英治

「日の出」1935(昭和10)年1月号~1937(昭和12)年1月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 337,181 字 · 676 页

青空文庫

墨のにおいがただよっている。何か書きかけていたとみえ、色紙などが散らかっていた。

机の上の鷹の羽をとって、客卓の塵を払い、そこへ茶器をのせた。安兵衛は、床の間の書を見ていた。天照皇太神の五字がまだ濡れているような溌墨を見せている。春満は茶を入れながら、安兵衛の眼の行っているところを見て、

『見事でしょう』

と、云った。

『細井広沢先生ですな』

『そうです……聞けば御尊父の弥兵衛殿と先生とは、親しい間じゃそうで』

『あなたも、御存知で』

『されば、会などで、よう会いますから』

『ほほう、誰が何う懇意か、分らぬものですな。貴公と広沢先生がお親しいとは』

安兵衛は心のうちで、これは迂かつな談議はつつしまなければならないと思った。細井広沢は或る事情があって、夙くに一党の真意を知っている人なのだ。絶対にもれる惧れがないとして打明けてあるのだが、何んな理由かで、ふと春満の耳に入っていないとは限らない。

春満が、吉良邸へ一度でも二度でも足踏みしていることは、こちらの手引と考えて接近しているが、却って、こちらの実体を、向うへ通じさせる惧れも十分にあるのである。安兵衛は、確と、肚をかためてかかる必要を感じた。