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しんぺんちゅうしんぐら
新編忠臣蔵
吉川 英治
「日の出」1935(昭和10)年1月号~1937(昭和12)年1月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 337,181 字 · 676 页
室の外で、その時、老母の声がして、
『四郎べ。蕎麦がぶてたが、そこへ持って行くけの』
一学は、振り向いて、
『あに、炉部屋へ置いてくらっせ、そっちへ喰べにゆくでの。おっ母も、客人と一緒に喰らんせ。ちっとも、気がねは要らんおらの友達じゃげな』
『酒はよ、飲むのけ、飲まんのけ』
『飲む飲む』
と、それだけは木村丈八が答えた。そして一学と共に部屋の中で大きく笑っていた。
翌る朝。
朝餉に向う時は、もう丈八も一学も旅装をしていた。いちど町人髷にした月代を無理に武家風に直した丈八の顔は、すこし可笑しかった。
食事がすむと、清水一学は、仏壇のある部屋へ入って暫く坐っていた。そこから出て来たとき、老母の眼は濡れていた。
『四郎べ。おらは、この年じゃで、いつ死ぬかわからんねえが、おらが病んだからというて、殿様の御用を欠いて迄、あにも、来ることは要らねえだ。殿様の御恩を、ぬしゃあ、忘れるでねえぞ』
草鞋をつけている息子を見ながら老母は鼻をかむのであった。
木村丈八は先へ出て、
『御厄介になり申した』
一礼して、笠の緒を結ぶ。
ふたりの姿が、青田の畦を歩いてゆくと、田植の人々が、腰をあげて手を振った。