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しんぺんちゅうしんぐら
新編忠臣蔵
吉川 英治
「日の出」1935(昭和10)年1月号~1937(昭和12)年1月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 337,181 字 · 676 页
その姿も、復讐を一念にしている人とは受けとれなかった。離散と共に移って来たこの借家にしろ、家庭の整い方や、安兵衛の妻の幸女の顔の明るさや――どこにも、暗いとか悲壮とかいう影はないのだった。郡兵衛は、
(はて? ……)
と、惑わずにいられなかった。
まだ、妻というものを知らない郡兵衛なのである。やがて、安兵衛が挨拶に出て、奥の部屋で、お幸の手から、小袖を着せ掛けられたり、旅の持物の細々とした心づかいを受け取っているのを見ると、何か、軽い羨望にとらわれて、自分の生涯を、心で独りさびしんだ。
『お待たせした』
四、五日の留守を云いおいて、安兵衛は、新しい草鞋を足につけた。笠を持って、お幸は、戸外へまわる。弥兵衛も、門まで見送って――
『道中薬は持ったか』
『矢立は』
と、細やかな心づかいが、この父娘の日頃の家庭を偲ばせる。
郡兵衛は、その日の旅に、妙に、人妻が眼についてならなかった。又、街道から覗かれる百姓の家や、商い屋や、さまざまな階級の家庭が、妙に眼についた、そしてその家毎の団欒を思ってみたり、人生を考えたり、又自分にかえってみたりして、言葉かず少なく歩いた。