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ゆきのじょうへんげ

雪之丞変化

三上 於菟吉

「朝日新聞」1934(昭和9)年11月~1935(昭和10)年8月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 344,083 字 · 673 页

青空文庫

いられなかった。

「花むら屋!」

と、いう、聴きつけぬ屋号は、江戸ッ子たちの、歯切れのいい口調で、嵐のように投げかけられるのであった。

楽屋に戻ると、あたりの者は、目を輝かして、菊之丞と、その愛弟子とに、心からの祝辞を述べずにはいられなかった。

「親方、これで、いよいよ日本一の折紙がついたわけでございます」

「負けず嫌いの江戸の人達が、あんなに夢中になっての讃め言葉、わたし達は、只、もう涙がこぼれました」

と、弟子どもの中には、ほんとうに、涙ぐんでいるものさえあった。

雪之丞も、勿論ホッとした。

これで、長年育ててくれた恩師に対する、報恩の万分の一を果したと思うと、肩の重荷が、だんだん下りてゆく気がするのだった。

しかし、彼は、言い難い、不安に、一方では襲われている。

胸をとどろかせ、心をおどらして、今日こそ、その生面が見られると、待ちこがれている土部三斎の一行が、二幕目が下りるころにも、場内にあらわれて来ないのだ。

東の桟敷に、五間、ぶっとおして、桔梗の紋を白く出した、紫の幕を吊ったのが、土部家の席にきまっていたが、もうびっしりと、一ぱいに詰まった見物席の中で、そこだけが、ガラ空きだ。