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くろだじょすい

黒田如水

吉川 英治

「週刊朝日」朝日新聞社、1943(昭和18)年1月~8月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 163,639 字 · 325 页

青空文庫

さて。それはともかく。

官兵衛はいまやその信長の前へこの姿のまま運ばれてゆく途中にある。担架を担う小者の歩み、前後に従う諸士の足のその一歩一歩に、信長の顔は、彼の戸板の枕頭に近づきつつあるのであった。

――もしこれが、この機会が。

かの荒木村重からいろいろな事実を聞かされていた当時だったら、所詮、彼はこの姿を信長の前へ曝すには、その無念に忍び得なかったにちがいない。

奮然、西を指して、

(中国へやれ)

と、叫んだに相違ない。生涯二度と、信長の顔は見たくもないと唾して誓ったかも知れないのである。

けれど今は――明け初めた今朝は――そういう心もわいて来ない。仄かに秋の朝となった地上を戸板の上から眺めて、

「ああ、ことしも秋の稔りはよいな」

と、路傍の稲田の熟れた垂り穂にうれしさを覚え、朝の陽にきらめく五穀の露をながめては天地の恩の広大に打たれ、心がいっぱいになるのだった。

今、彼のあたまには、一信長のすがたも、一本の稲の垂り穂も、そう違って見えなかった。べつに、もっともっと偉大なものがこの天地にはあることがはっきりしていた。そして信長の冒した過誤へ感情をうごかすには、自分もまた稲の一と穂に過ぎない一臣の気であることがあまりにも分り過ぎていた。