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ゆきのじょうへんげ

雪之丞変化

三上 於菟吉

「朝日新聞」1934(昭和9)年11月~1935(昭和10)年8月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 344,083 字 · 673 页

青空文庫

「まあ! どうしましょう! 八方が、すっかり火になってしまったようですが――」

と、おろおろごえで、取りすがる女房の、顔には血の気もなかったが、さすが、主人は驚愕の中にも沈着さを失わず、

「落ち着け、落ち着け! こんなときは落ち着きが何よりだ――日ごろから、そなたにだけに知らせてある地下道――今夜のような場合のためだ」

そう云いさま、広海屋は、寝巻の上にどてらを羽織って、脚のすじの抜けたような妻女を引ッかかえるようにしたまま、地袋にくぐり入って、秘密のバネを押して床板を刎ね上げると、真暗の中を、ゆるやかな傾斜を辷るように、真直に辿りはじめた。

恐らく、そのときには、さすが広海屋ほどの狡猾な人間も、まだ失火の原因については知らなかったろう――知らぬも道理、店の次の棟に、大勢寝ていた若者たちさえ、魔物のようにはいって来て、たった一人目ざめて大戸を開けた手代を刺し殺し、主人夫婦に接近しがたいと知るとすぐに目にはいった油樽に火を入れた、三郎兵衛の姿に気がつくものはなかったのだ。現に主人たちの密室から、廊下を隔てた一間に、うない児を抱き寝していた乳母さえ、前後をいかに忘失したとはいえ、当の長崎屋に、この一家に取っては、何ものにも変えがたい一人息子の赤児を渡してしまっている位ではないか!