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しんしゅうてんまきょう

神州天馬侠

吉川 英治

「少年倶楽部」1925(大正14)年5月号~1928(昭和3)年12月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 511,765 字 · 1011 页

青空文庫

五

しかし、その傾斜は目がまわるほど深く、きわまるところに、白い渓流が淙々と鳴っている。

どこからとでもなく、このあたりいちめん、得もいわれぬ好いかおりにつつまれている。朝の陽が、ゆらゆらと峡のあいだから射してくると、つよい気高い香気が水蒸気のようにのぼって、ソヨとでも風があれば、恍惚と酔うばかりな芳香が鼻をうつ。

人の知らぬ小太郎山の峡をぬけて、奥へ奥へと二里ほどはいった裏山、ちょうど、白姫の峰と神仙ヶ岳との三山にいだかれた谷間で、その渓流にそった盆地の一角を杣や猟師は、緋おどし谷とよんでいる。

緋おどし谷一帯は、ほとんど山百合の花でうまっている。むしろ百合谷と呼ぶべきところだが、その盆地に特殊な一部落があって、百合より名をなすゆえんとなっている。

渓流に架かっている蔦のかけ橋、そこを渡ると部落の盆地、あなたに四、五軒、河べりに七、八軒、また傾斜の山の背にも八、九軒、煙を立てている人家があった。そして、そこに住んでいるのは、みな十五、六から七、八の百合花そのままな乙女たちばかりである。

修羅戦国の春秋をよそに、緋おどし谷は平和である。比叡、根来の霊山を焼きはらって惜しまぬ荒武者のわらじにも、まだここの百合の花だけはふみにじられず、どこの家も小ぎれいで、まどには鳥籠、垣には野菊、のぞいてみれば、壁や床にも胡弓